第五章 彼女の痛み
〜雪の少女の記憶〜

 声が聞こえる。

 誰かが僕を呼んでいる声。

 それは懐かしくて、

 どことなく哀しくて、

 そんな美しい天使の声。


 けど、

 これはなんだろう?

 昔から知っている声。

 僕が生まれた時から、

 隣に居たような感覚がする。

 そんな懐かしい声。


 キミは一体誰なんだ?

 そして、僕はどうして憶えているんだ?

 この声を……。




「―――くん! 葉くん! 起きてよ!!」
 誰だ?
「傷、治したのに……、まだ目覚めないなんて……」
 誰かが泣いている……。
 涙が僕の身体に落ちているのが分かる。
 僕のために誰かが泣いている。
「お願いだから……目を覚ましてよ! 双葉ちゃんが……! 双葉ちゃんがどこにも居ないんだよ!? 双葉ちゃんを見つけるのは、葉くんしかいないんだよ!?」
『双葉』
 その言葉を聞いて、一瞬にして頭が冴えてきた。
 双葉が……居ない?
 完全に意識を取り戻し、起き上がる。
 起き上がって目の前にいたのは、紛れもないユキだった。
 ユキは泣き顔から、驚きの表情へと変わる。
 そのまま何も言わずに僕に抱きついてきた。
「葉くん、私……私、心配したんだよ?」
 僕はその抱きついた来た腕を退けて、
「ユキ、双葉が居ないっていうのは本当なのか!?」
「え……? あ、うん本当だよ」
 ユキは戸惑いながらも、僕の方をずっと見つめて答えた。
 その目は真剣そのもの。双葉が居なくなったのは本当の事らしい。
「ユキ、手分けして探そう! 双葉はまだこの学園内に居るかもしれない!」
「うん分かった! 葉くんは校内をおねがい。私は校庭を探すから」
 そう言うと、ユキは保健室の窓から校庭へと飛び降りた。
 5階の窓から飛び降りるって、女の子のやることじゃないが……。
 だけど、それほど心配してくれているんだろう。
 双葉、お前は……良い親友を持ったんだ。
 だから伝えなければならない。
 『お前は独りじゃないって』

 目の前には大きな扉。
 その扉を押すと、目の前は桜色に包まれた。
 屋上には十二本の桜の木が、十二芳星の円を描きながら立っている。
 僕は双葉を探そうと辺りを見渡したが、その姿は何処にもいなかった。
 ここもいないか……そう思い扉に手を差したときだ。
 どこからともなく、苦痛の声と血の匂いがした。
 間違いない。
 双葉はここに居る。
 そしてまた、自分を傷つけている。
 僕は懸命に探した。
 傷付いた少女を見つけるまで。
 だけど、その少女は何処にも居ない。
 なぜなんだ?
 もし自分に姿消滅の魔法でもかけていたら、誰も見つけられない。
 もし僕の姿を見ているとしたら……
「双葉!居るんだろここに!? ここにいる事は分かってるんだ! 早く出て来い!!」
 僕は大声で言った。双葉に気付かせるために。
「やっぱり……最初に私を見つけるのは……兄さんだね……」
 双葉がふわりと、十二芳星の中心から姿を現した。
 右手にはカッターナイフを持っていて、
 左腕からは夥しいほどの血が溢れていた。
「また……自分を傷つけたのか……」
 双葉がこくん、と頷いた。
 そしてその顔からは、涙が零れていた。
「また……兄さんを傷つけてしまった……。だから私……いつの間にか手を切っていた……。馬鹿だよね私。手を切ってしまえば、痛いし……兄さんにまた迷惑をかけてしまう……。そんな事分かっているのに、やっぱり何かと繰り返してしまう……」
 上手く話せないから、想いが届かない少女。
 想いが届かないから、悔やんでしまう少女。
 悔やんでしまうから、自分を傷つけてしまう少女。
 夢で言っていた少女の事はやっぱり……双葉のことだったか……。
「私、素直じゃないから……また兄さんを傷つけてしまう……。私のせいで……兄さんが……」
「……最低ですね」と呟きながら、双葉は僕に血が流れている左腕をよく見せた。
「どうですか、兄さん? 私の血、よく流れているでしょう? ……だけど、兄さんが負った傷で流れた血なんてこれぐらい何とも無いです」
 そう言うと、右手に持っていたカッターナイフを左手に持ち替え、今度は右腕を切った。
「……はあ、はあ……これぐらいも……何とも……ない……です……から」
 持っていたカッターナイフを持ち替え、今度は首の動脈を切ろうとする。
 だけど、僕がそんなことを黙って見るはずがない。
 僕は双葉の右手を抑えた。
 その右手をゆっくり下ろしながら、その血が流れている腕を優しく擦りながら、治癒術を唱えた。……女の子に切り傷なんて似合わない。腕を切った跡が見えないぐらい僕は傷を治した。
「もう、自分を傷つけるのは止めろ」
 僕は双葉に優しく声をかけた。
 すると双葉は苦しいそうに胸を抑えた。
「どうして、そんな事したんだ?」
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
 沢山の涙を零しながら謝った。
 その零れた雫には沢山の想いが詰まっているのだろう。
「私には……こんな事でしか償えないんです! ……いくら慕い尽くしても、傷なんて癒えないんです! だから、私……兄さんと同じように自分を傷つけて……!」
「双葉、謝らなくていい。あんなのただの兄妹喧嘩だろう?」
 僕は笑いながら言った。双葉を落ち着かせるために。
「だけど……そのせいで兄さんは傷ついてしまった……」
「傷? 妹の苦痛を受け止めるのは兄、僕としての役目だ。別にこれくらい平気だ」
「そんな役目なんて……普通ないよ……」
「僕が勝手にしていることだからな」
 そうだ。この役目は誰かから言われてやってるんじゃない。自分の意思でやっていることなんだ。
 だけど、その事に双葉は分かっていない。
 だから、自分を傷つけてしまう。
 その傷つけた手首を抑えながら、双葉は口を開く。
「……やっぱり私は、兄さんにとっての邪魔者なんだ」
 その言葉は僕を哀しませるかのような言葉だった。
 僕は双葉のことを邪魔者だと思ってなんかいない。
 その逆なんだ。
 僕は双葉を必要としている。
 双葉が生きているから、僕も生きていけると言ったのに……。
 双葉にそのことを伝えるため、懸命に言った。双葉が本当の双葉になるために。
「お前は想いを自分の心の中に抱えすぎだ!! その想いは自分を苦しめつけているだけなんだぞ!? 何故もっと甘えてこない? 何故素直にならない? それは双葉が、他人を傷つけるかも知れないと恐れているからだろ!? 苦痛っていうのはな、どうやって癒えていけると思う? 双葉は自分の心に抱えたままで、癒えていけると思っているのか? 何年も何十年も。ずっと、心の奥に閉まっておくのか!? 僕はそうは思わない。苦痛は想いを伝えてこそ、少しずつ癒えていくものなんだ。何年でもいい。何十年でもいい。自分の想いを伝えればきっと、自分の過ちに気付くだろう。自分の苦しみに共感する人もいるかもしれない。分からないか……? 自分以外の誰かが苦しい思いをしている時に、自分はどのように思う? 少しでも助けたいという気持ちはあるだろう? 迷惑だ、と思いながら普通は助けないだろ? 今の僕もそれと同じなんだ! 双葉を助けたいんだ!!」
 双葉は僕の言葉に戸惑いながら、
「で、でも……私は、苦しい思いなんか……して……にゅっ!?」
 僕は双葉の頬を両手で摘まんだ。
 予想外なことに双葉は驚いている。
「ひたたた……にゃにすりゅんですか!? にぃしゃん!!」
 ……おもしろい。ずっとこのままでもいいんだが、そんな事していたら双葉がマジでキレてしまうかもしれない。
「にゅ〜〜……」
 こうしている内に、双葉の顔がムスッとしてきた。
 機嫌が悪くなったので頬を摘まむのを止めると、その後に双葉が怒ると思ったが逆に顔を暗くしていた。
「兄さんは私のことを助けたいと思っても……、本当は嫌いなんでしょ?私のこと……」
「馬鹿!! まだお前は分かっていないのか!? どうしてそんなに独りで居たんだ!? どうして、自分から離れてくれみたいな言い方をするんだ!? お前はもう、独りじゃないんだ!! 皆、側にいるだろう!? いい加減に気付けよ!!」
―パシッ!!―
 僕は気が付くと、双葉に手を出してしまっていた。
 ……一番やってはいけない事をやってしまった……。
 双葉はもう、
 僕の事を信じなくなったかもしれない。
 そしてまた、
 双葉が孤独に戻ってしまう。
 僕はどうしたら良い?
 双葉は僕が叩いたところを抑えて、
 僕に向かって……
 嬉しそうに……笑った?
 そして力が抜けたように双葉は僕の胸に倒れてきて
「ありがとう……兄さん……。私を本気で叱ってくれて……」
 そう……言った。
「え……?」
 突然の発言に僕は言葉を失った。
「私……兄さんに叱ってもらえなかったらどうしようと思ってたの……。叱ってくれる人が居るから私は独りじゃないよね?本気で叱ってくれるんだから、本当に心配しているんだよね? ……だから私は、もう独りじゃない」
 僕はやっと双葉が求めていることが分かった。
「ああ。そうさ。双葉はもう独りじゃないんだ」
「この葉月双葉。独りではないから今、この想いを貴方に伝えます。……ずっとこうしていたい。永遠に抱き合っていたい。だけど、私達は仮にも兄妹。そんなことは許されない。だけど、私は少しだけでも良いから……抱き合っていたい」
 初めて双葉は僕に想いを伝えた。
 だけど、僕はどう答えたらいいんだ?
 妹として……女の子として……恋人として?
 パズルのピースが欠けたと同じように、僕の想いのピースも欠けていた。
 やっと双葉は伝えてこれたのに、どうして自分が答えられないんだろう。
 僕はもどかしい気持ちを抑えることは出来なかった。
「ごめんね兄さん。ワガママ言っちゃって。私はもう別に構わないよ。兄さんに伝えることが出来ただけで幸せなんだから」
 しばらく双葉は後ろを振り向き、僕に顔を見せてくれなかった。
 泣いているのかもしれない。
 僕が……答えることが出来なかったから。
 そう思っていると、双葉がやっとこっちに振り向いた。だけど、何だか機嫌が悪そうな顔をしている。
「……兄さんに叱ってもらったのは良いんですが、さすがに本気で叩くっていうのはあんまりじゃないかな? 女の子の顔を平気でしかも本気で叩くなんてね〜」
「うっ……」
 その言葉には言い返せない。
 事実だし、反論しても無駄だとわかっていたからだ。
「兄さんの妹双葉は、兄さんに対して慰謝料を請求したいと思います〜♪ その慰謝料とは、永遠に忘れない物♪」
 瞬間、
 双葉の顔を近くなってきて、
 それで何か僕の唇に軟らかい物が当たって……、
―チュッ……―
「え……? え? えっ!? な、何を……」
 ちょっと待て!
 さっきの行動ってまさか……、
 キス!?
「えへへ……照れた兄さんもかわいいな〜」
「あ〜〜ちょっと、双葉さん?」
「えへへ……兄さんとキス……。最高の想い出……」
 ダメだ。自分の世界にはまっている。
 それに自分からキスをしたのに、顔が赤くなっているなんて……。
「これはこれは兄さん。私とのルート確定ですか〜♪ そして、最後には血が繋がっていなかったというベタなシュチレーション……な訳ないか。兄さんと私は血の繋がってる兄妹ですからね……」
 ……ともかく、双葉が元に戻ってなりよりだ。
 もう、これで双葉は分かっただろう。
 自分がもう、

『独りじゃないことを』