第二章〜始まりの詩(前編)〜
-遠い約束〜白銀の生誕祭〜-

 目が覚めると、そこは広い空き地だった。コンクリートで出来た瓦礫がそこら辺に散らばり、まるで人の手を加えられていない。見捨てられたような場所だった。
 立ち上がり、制服についた砂埃を払う。周りを見れば、人一人見当たらない。
 僕は、少し靄のかかっている頭を振った。
「僕、確か誰かと公園にいて、それで・・・・・・」
 そこまで言って、首を傾げる。誰か? 誰かって、誰のことだったっけ?
 顔と名前が浮かばない。まるで、そこだけ記憶が抜き取られたかのように。
「う〜ん」
 唸ってはみるが、まったく浮かばない。まあ、一緒にいたのはその程度の付き合いの奴らだったんだろう。無理して思い出す必要も無い、か。
「ま、いっか」
 とりあえずは自己完結して、改めて周りを見渡す。
 視界に入るのは、瓦礫、瓦礫、瓦礫の山。ビルでも倒壊したのだろうか、瓦礫の所々からは鉄筋が顔を覗かせていた。
 とても、あのとって付けたような公園とは思えない。
 瓦礫の隙間から吹きつける風が、肌を撫でるように通り抜けていく。
 その寒さに身震いして、身体を両腕で抱きしめるようにした。
「どこだよ、ここ」
 絶対に、あの公園じゃない。
 絶対に、日本じゃない。
 じゃあ、どこだよ。自らに問い掛けてみても、答えは無い。当然だけど。
 ただ立っているのが不安になり、近くの瓦礫をよじ登る。鉄筋に足を掛け、出っ張ったコンクリートの残骸に手を掛け。力を込め、身体を持ち上げる。
 そうして、瓦礫の上に立った。立って、そして見える光景に絶句した。
 瓦礫に囲まれているのは、ここだけじゃなかった。少なくとも、半径50キロメートルは全て瓦礫に覆われている。
 辛うじて倒壊を逃れているビルは数えるほど。しかも、そのどれもがもう倒壊してもおかしくないほどに無残な外見を成していた。
 巨大なビルに取り付けられた、巨大なモニター。火花を散らして、画面を砕かれて。もう、映し出されるものは何も無い。
 僕は、身体の震えを抑えきれなかった。決して、寒さからの震えじゃない。ただの、恐怖ゆえの震え。本能が警報を発していた。ここは、ヤバイと。
 風が吹く。どこか死を孕んだ風が、コートを揺らした。
「は、ははは・・・・・・」
 乾いた笑いを浮かべ、一歩踏み出す。
 瞬間、遠くで高く巨大なビルが倒壊した。衝撃は地面を伝い、信じられない速度で僕の立つ瓦礫にも襲い掛かってくる。
 揺れる瓦礫。笑っていた膝はその衝撃で力を失い、僕はその場に尻餅をついた。
 下を向いた視線を、空に向ける。覆う雲は鉛色で、光は隙間からしか覗かない。
「うわああああああああああぁぁぁっ!」
 大声で、叫ぶ。しかし、その声は鉛色の雲に吸い込まれ、そして終わるだけだった。
 現実を否定しようとした叫び。だけど、否定できなかった現実。
 力が抜け、視線は自然に下を向く。僕は、絶望していた。何もかもが、信じられなかった。
「何なんだよ、ここは・・・・・・」
 呟き、ゆっくりと立ち上がる。そして、何かに押されて地面へと落ちていった。
「え?」
 地面が近づく。でも、恐怖はさほど無い。身体が、何か動く。人間の危機回避的な本能だろうか。
 何とか着地して、上を見る。そこには、影がいた。黒と白の入り混じった影。
 顔は無い。顔と思われる箇所には、大きな口しかなかった。
 歯を見せ、笑う影。獲物を見つけた、狩人の笑み。吹き付ける殺気。吹き出る冷や汗。膝が笑う。動けない。腰が砕けそうだ。
 それは、純粋な恐怖。色で言えば、ただの原色。何も混ざってはいない、ただの色。それ故に最も恐ろしい、生理的本能的恐怖。
 全身の筋肉が引き攣る。何も、何も出来ない。
 影は僕をジッと見る。そして、飛び降りてきた。鋭く尖った五つの指を振りかぶって。
 目を見開いた僕は、咄嗟に転がる。地に降り立つ影。左右合計十の指を擦り合わせて、不気味に揺れる。
 僕は、後退った。背中が、瓦礫の壁にぶつかる。影は、地を蹴った。
 突き出される指。僕は、横に逃げる。一瞬前まで僕のいた場所が、瓦礫が粉々になる。影は、ゆっくりとこっちを向いた。
 ――殺される。
 飛び掛ってくる影。その指は、確実に僕の喉元を狙っていた。
「うわああぁっ!」
 無我夢中で、右手に握っていたものを振るう。それは鋭い音を立てて、影の爪を弾き飛ばした。
 弾かれた爪を眺めるように、影は首を傾げる。
 僕は、手の中にあるものを見開いた目で見詰めていた。
『持っていけ』
 そう言って、兄さんが渡してくれた棒。それは白樺の色。身長の2/3はあろうかという、長いものだった。
 棒術の心得なんて無い僕は、いつも竹刀を握るように棒を持つ。
 長いけど、バランスが取れないほどじゃない。
 影は爪を眺めることに飽きたのか、こっちを見ている。相変わらずの、吐き気を催す笑みで。
 一瞬後には、その笑みが目の前にあった。
 開かれる口。長い舌。鋭い牙。奥に広がる、果て無き闇。
 膝から力が抜ける。落ちる腰。頭上では、瓦礫を咀嚼する影。抜けそうな腰に無理やり力を入れ、影の足元から転がり出る。
 逃げないと。考えることは、ただそれだけ。だから振り返らずに走った。止まったら死ぬ。振り向いたら死ぬ。速度を落としたら、死んでしまう。
 足がもつれる。よろける。しまったと思うが、もう遅い。口は、すぐ後ろにあったのだから。
「うわあああっ!!!」
 振り返りながら、出鱈目に棒を振る。わずかに曲線を描いたそれは、影の身体を容赦なく襲った。
 でも、効果なんてない。怯みもしない。
 こんな時、剣道なんて経験はまったくの意味を持たない。頭は混乱し、筋肉は畏縮し、恐怖が経験を凌駕する。
 もうこうなれば、さっきのような緊急回避は無理に等しい。戦争反対という温室で育った一介の高校生が、こういった状況で今まで生きていたことが既に奇跡なのだから。
 ――奇跡は、起きない。
 僕は、怯みもしない影に出鱈目な、攻撃とも言えないただの打撃を続ける。
 奇跡なんか起きないって分かっていても。でも、身体は必死にそれを否定しようとして。その動きは、ほとんどが脊髄反射みたいなものだった。
 影は笑みを消して、打撃を受け続ける。それは、与えられた玩具に飽きた子供のようだった。
 途端に吹き抜ける殺気。飽きた影は、本気になったようだった。本気で、僕を殺しにかかってくる。手から、棒が落ちる。乾いた音を立てて転がるそれ。もう、無理だ。何にも、できない。
 膝が震え、力が入らなくなる。それでも倒れないのは、精一杯の抵抗なんだろうか。
 ――奇跡なんか、起こるはずがない。
 気付けば、影は爪を振り上げていた。もう、その動作すら目で追えない。
 一瞬後には、あの爪が僕の身体を半分に引き裂くだろう。何もできない、無抵抗な僕を。
 腰が、沈む。膝が耐え切れなくなったんだろう。こんな時に冷静に身体の状況を分析できる自分が恨めしい。
 そうして狩人は、爪を振り下ろす……前に、何かに貫かれた。
 それは、三本の針。隙間から降り注ぐ光を受け、銀に光る針。否、それは針ではなく矢だった。
 爪を振り下ろす瞬間、その姿勢のまま、淡い光となって消えていく影。消滅は、儚く美しかった。
 視線を上げる。雲が動く。蒼い月が、この場を薄く照らし出す。
 山のように積み上げられた瓦礫。その頂上。僕は、一人の少女を見た。
 銀の髪が、風に泳ぐ。身を包む黒装束が、風にはためく。右手には大きな弓を持ち。左手には弓に番える三本の矢を握る。
「貴方、誰……?」
 静かな、鈴を転がすような声。透き通っていて、静かだけど、それははっきりと僕の耳に届いていた。

―――――――

 矢を収め、少女は今、僕の前の前にいた。互いに無言。僕は驚愕から。少女からは、困惑の色が見て取れる。
「誰なの?」
 再び繰り返される、同じ質問。何かを言わなきゃならないのに、声が凍り付いてしまったかのように何も言えない。
 その無言を、どう受け取ったんだろうか。少女は、軽くため息を吐いた。
「そう。言う気はないのね」
 そう言って、人差し指を突きつけてくる。
「もう面倒くさいから、君でいいわよね?」
 不思議だ。疑問形なのに、命令形に聞こえる。それはもう、有無を言わせぬ力みたいなものがあった。
「で、君。ここで何してるの? ここは進入禁止区域よ。私は聖騎士団の調査でここに居るんだけど、ホントは私みたいな第一級王国民でも入っちゃいけないんだから。それはそうと、見たことない服装ね。もしかして、帝国のスパイか何か?」
 驚愕を通り過ぎて唖然としている僕に、少女は捲し立てる。おかげで、身体を覆っていた緊張が解れていく。
そして、生きているんだとようやく実感できた。
 ゆっくりと、自分の身体を見る。
「僕、生きてる……」
 奇跡が起こった、みたいだった。ただ、その奇跡を起こしてくれたのが目の前の喧しい少女だって言うのが、現実の厳しいところか。
「帝国のスパイだって言うんなら、手加減なんかしないんだから」
 少女は何か自分で結論付けたのか、後ろに跳ぶ。左手で、矢を掴みながら。
 腰に提げられている矢筒から、銀のそれが姿を見せる。少女は着地と同時に、それを弓に番えた。
「えっ?」
 弦が、限界まで引き絞られる音が、五メートルは離れた僕の耳にも届いてくる。
 というか、たった一度の跳躍でそんなに跳んだのか。
「ここで見つかった無能を恨みなさい!!」
 本気だ。本気で少女は、僕を射抜くつもりだ。
 弦から指が離れるよりも早く、近くに転がっていたあの棒を掴む。コンマ一秒の差で、放たれる矢。その数、三。地面と平行に飛来するそれは、音速を超えているかの如く。一秒を待たず、僕の額を貫くだろう。でも。
「うわぁっ!!」
 身体が、動いた。一秒にも満たない時間の中、神速で振るわれた棒が三本の矢を迎え撃つ。
 鋭い音。ガキィンというそれが、瓦礫の広場に響く。弾かれた銀の矢は、丁度僕と少女の間に落ちた。
 カランカランと、金属が地面を転がる。
 たった一回棒を振っただけなのに、肩で息をしている。振り抜いた右腕が痛い。引き千切れそうだ。
 燕返しをはるかに超えた速度を以って、僕は矢を弾き落した。
 それは意識してのことじゃなかったけど、少女を愕然とさせるには十分だったようだ。
「う、うそ……」
 矢を放った状態で固まる少女。ようやく動く下半身で立ち上がり、僕は深く息を吐いた。
「いきなり、何てことするんだよ!!」
 そうして、理不尽な怒りをぶちまける。
「う、うるさいっ!! この、帝国の犬!!」
 帝国の、犬?
「一体、何のことだよ!!」
「しらばっくれるんじゃないわよ、このスパイ!!」
 スパイ? 少女は、僕のことを勘違いしているのか。
「……はぁ」
 どこから、ため息を吐けるほどの余裕が生まれたんだろうか。緊張はほぐれ、畏縮していた筋肉は通常の状態に戻っている。
 開き直り、みたいなものだろうか。もしくは、自棄になったのか。
 ……多分、自棄だろうなぁ。
「何よ。何か文句でもあるの?」
 やけにツンツンとした物言いだなぁ。言いながら、次弾を装填し始めてるし。
「僕は、その帝国とかいうのと何の関係もないよ」
「嘘言いなさい!!」
 いや、嘘じゃないんだけど。
「じゃあ何で、こんな所にいるのよ。王国の人間なら、間違ってもここには足を踏み入れないはずよ」
「それは……」
 それは。
「……分からない。むしろ、教えてほしいぐらいだよ」
「はぁ?」
 何言ってんの、こいつ。みたいなニュアンスの声。
「そもそも、その王国とかいうのも分からないし」
 どちらかって言えば、日本は帝国だよなぁ。大日本帝国なんて、昔言ってたぐらいだから。
 でも、彼女が言っているのはそういうのとは違う。気がする。
「じゃあ、君はどこの人間なのよ」
「日本ってところだけど……」
「日本? 聞いたことないけど」
 ないけど?
「とりあえず、二人目の漂流者ってことね」
「漂流者って?」
「君みたいな、この世界じゃないどこかから来た人間ってこと。前例はあるんだけど、まさか君もそうだとはねぇ」
 警戒が解けたのか、番えていた矢を矢筒に戻す少女。弓は、折りたたみ式なのだろうか。その形を変えて背負われる。
 それにしても、二人目? じゃあ。
「一人目がいる……」
「ん? そうよ。一年前ぐらいに、ひょっこりと王国に現れたのよ」
 言って、少女は背を向けた。
「着いてきて」
「えっ?」
「えっ? じゃないわよ。一人じゃ困るでしょ? とりあえず、連れて行くから」
 連れて行くって。
「どこに?」
「決まってるでしょ? 我らが母国、アリキシス王国によ」
 空を覆っていた雲が晴れる。
「そういえば、まだ言ってなかったわよね」
 月に照らされ、少女はまぶしい笑みを僕に向けた。
「私は、ミリア。ミリア・フォン・アルトリア。君は?」
 思えば、これが僕とミリアとの初めての出会いだった。そして、終わりへの再出発だったんだ。
 僕の名前は。
「悠。佐々木、悠」
 嘘偽りなく、そう答える。少女、ミリアはそれを聞いて、満足げに頷いた。
「そう。じゃあ、よろしくね、ユウ」

―――――――

 暗い暗い森の中。月の光さえも断絶される森の中。湿気に満ち溢れた異界。どこかでなにかの鳴き声が断続的に響き、どこかで木々を裂くような羽音が聞こえる。
 深い深い森の中。風さえも湿気を孕んでいる森の中。腐敗に満ち溢れた異界。
 俺は、そこで目を覚ました。
 巨大な木の、盛り上がった根。そこに横たわっていたんだから、誰かが助けてくれたんだろうか。
 でも……。
「一体、何から?」
 思い出せない。何に怯えていたのか。何を拒絶していたのか。何に対して足掻いていたのか。
 記憶に穴が開いたような感覚。そこだけが、ガランドウのまま。入るものもなければ、出て行くものもない。即ち、無。虚無。
「……そうだ」
 思い出せない。でも、一つだけ覚えていることがある。
「悠!!」
 叫ぶのは、親友の名。しかし、その叫びは深い闇の中に吸い込まれ消えていく。
 返ってくるのは、奇妙な泣き声だけ。
「悠! くそっ、悠!!」
 何度も何度も、同じ名前を叫ぶ。けれども、返答は微塵もない。
 そこに至って、俺は気付いた。
 ――今この場には、俺一人しかいない。
 それは、どれほどの恐怖だろうか。辺りを見渡せど、視界に映るのは見覚えのない深い闇。まるで精気の微塵も感じられない木々。枯れ果てて地に落ち、腐敗を辿る葉。
 ここは、息苦しい。酸素濃度が、少ない。
 精気がないくせに、まるで木々が呼吸をしているようだ。
「くっ!!」
 耐え切れなくなって、俺は走った。どんな所でも、必ず出口はある。全てに、永遠なんて存在し得ないのだから。
 それは、一握りの希望。一筋の光。
 道なんて関係ない。左右なんて無視だ。今はただ、我武者羅に走り抜けるだけ。
 ぬかるんだ地面を蹴り抜き、走る。駆ける。駆け抜ける。
 何かの泣き声が、鳴き声が、近くでする。そこで、どうして立ち止まってしまったのか。理由は、簡単だ。それが、赤ん坊の泣き声だったから。
 だから、俺は泣き声の方へ向かった。
 方向感覚が希薄になる。向かうのは、声の聞える方。そうして、俺は自らの愚かさを呪った。
 海底に棲む深海魚は、発光器官を用いて餌となる深海魚をおびき寄せる。
 そして、聞えてきた泣き声もまた、それと同じものだった。
 薄暗い森の中。目の前には、巨大な何かの姿。身体は分厚い甲殻に覆われ、四本足で地を掴み、節の多い尻尾を縦横無尽に振り回し。泣き声は、何かの口の中から。耳まで裂けた口の中から顔を覗かせた、泣きじゃくる赤ん坊の顔から。
 吐き気がした。膝が震える。背筋を、冷や汗が伝う。全身の産毛が総毛立ち、毛穴が開く。脳が発するは、全力を持っての危険勧告。
 何かは赤ん坊の顔を喉奥に仕舞い込むと、獲物を目の前に裂けた口を歪ませた。愉悦。嘲笑。いや、それは、食事前の悦び。
 天に向かって、それは吼える。鼓膜が裂けそうなほどの叫び。
 一瞬後には、俺の身体は何かに吹き飛ばされていた。
 手近な木に激突する。肺の空気が全て持っていかれ、激しく咳き込んだ。頭が霞む。圧倒的な恐怖の前に、視界が紅く染まった。
 鋭い爪を振り上げるそれ。俺は死を覚悟して。
 ――シオン――
 視界が、クリアになった。
 横に跳び、爪の一撃を避ける。しかし、それだけだ。避けた後、為すべき事が為せない。何故か。武器がないからだ。そんな事、分かりきっている。だから。
もう一度、この手に・・・・ ・・・・
 右手を払う。握られる剣は、諸刃の剣。名を、『セイヴ・ザ・キング』。
 左手を払う。握られる剣は、片刃の剣。名を、『オラシオン・セイヴァー』。
 一撃で仕留められなかった憤りか。それは、獰猛な唸りを漏らす。しかし。
「そんな暇、もう無いぜ?」
 俺は、不敵に笑った。
 湿り気のある地を蹴る。周りの風景が一瞬で後ろに下がり、目の前には何かの足。
 振るう一閃は、『セイヴ・ザ・キング』。蒼白い軌跡を残し、それは何かの前足を斬り飛ばした。
 攻撃は、止まらない。止めるつもりも無い。
 振るう一閃は、『オラシオン・セイヴァー』。薄紅の軌跡を残し、それは何かの前足を斬り落とした。
 その身体が沈む前に、駆ける。狙うは、腹。
 潜り込み、抜けざまに回転。幾重にも重なり合う蒼と紅。その軌跡は、縦横無尽。
 抜ける頃には、何かの腹は盛大に鮮血をぶちまけていた。
 滑る地面を利用して反転。斬り落とされた前足を使って、ゆっくりと何かは振り返る。遅い。遅すぎる。
 俺と何かの視線が交錯する。よりも速く、俺は振り返った何かの頭に『オラシオン・セイヴァー』を突き刺していた。
 二、三度の痙攣。完全に白目を剥いて、何かは生命活動を停止した。
 それと同時に、二本の剣は痕跡すら残さず消える。後に残ったのは、信じられないほどの疲労と、軋みをあげる身体。そして、困惑する俺だった。
 不思議と軽かった身体は、今は鉛のように重たい。
「はぁ……っ、はぁ……っ、はぁ……っ」
 近くの木に背を預け、呼吸を整える。疲労は抜けない。いや、それどころか、呼吸を重ねるたびにどんどん苦しくなっていく。
 酸素を求める頭で考えるのは、ついさっきまでの事。一体、この身に何があったのか。
 クリアになった視界。まるで羽根のようだった身体。そして、両手に顕現した蒼剣と紅剣。握った瞬間に飛び込んできた、それらの銘。
 耳鳴りがする。全身が冷や汗でぐっしょりだ。
 ――シオン――
「っ……!」
 脳裏に反芻される、聞き覚えのない声。
 俺は、小さく舌を打って木から離れた。
「とりあえず……ここを抜けよう」
 そう。ここを抜けないことには、何も始まらない。いつまでもこんな所にいる意味なんて、そんなものないんだから。
 大分と落ち着いてきた呼吸。反比例式に増大していく疲労。
 身体中の筋肉が、骨が、節々が痛みを発する。
「はっ……。ざまぁ、ねぇな」
 部活で感じる疲労でも、これほど酷くは無かった。いや、そもそも、そんな部活で鍛えられた身体だ。多少のことで疲労感が溜まるなんて、そんな事はまずない。
 事実、校内のマラソン大会じゃぶっちぎりの大会新記録だったし。そのあと、ピンピンして部活に顔を出したし。悠にも呆れられたし。
 でも、そんな身体が今、限界を見せている。
 まぁ、あれだけ無茶な動きをすれば、当然の結果だろうがな。
 痛む身体を引き摺り、歩く。出口は見えない。もしかしたら、このままのたれ死ぬかも知れない。
 ……それでも、いいかな。
 知らない土地で、あれだけの事をしたんだ。ここで万策尽きて微生物に分解されたって、きっと許してくれるさ。いろんな人が。
 そう思うと、随分と楽になった。さようなら、我が人生。俺は新天地へと旅立ちます。
 歩くことを止めて、湿った地面に寝そべる。見上げる空は無く、差し込む光は残念ながら俺を照らすことなく、あっちとかそっちを照らしている。
 瞼を閉じれば、浮かんでは消える思い出の数。これが、走馬灯ってやつか。なかなか、壮観な眺めだ。
 意識が、闇の中に消えていく。現実との狭間が曖昧になり、湿った地面も遠くに感じた。
「まだ息はある。急いで運ぶんだ」
 誰の声だか。人を物みたいに言うなよな。
「異世界の英雄、か。ハジャ様の予言は正しかったみたいだな」
 凛として、透き通った声。性別は分からないが、多分、女だなこりゃ。
 その姿を確認しようと瞼に力を入れる。が、悲しいかな瞼は瞬間接着剤で固定されたかのようにピクリとも動かない。
 やがてそんな声も聞えなくなって。俺の意識は、プッツリとそこで途絶えてしまった。




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