第一章〜Another World(中編)〜
-遠い約束〜白銀の生誕祭〜-

 夢を、どこか懐かしい夢を見ていた。まだ幼い自分と、それを挟むようにして立っている両親。あの頃は全てが輝いていて、全てに満ち足りていた。
 何日も何日も、同じような日常が繰り返されて。何日も何日も、昨日とは違った一日が広がって。それでも、あの人たちの微笑みは変わる事無く温かかった。
 事は、突然だったと思う。中学二年、その後半。あの人たちは、結婚記念とかで旅行に出ていた。それで、家に帰ってきたのは。変わり果てた、あの人たちの、あの人たちだったもの。飛行機事故。人の形が保てている事が奇跡に近いほどの、凄惨な事故。生存者ゼロの惨事。僕は頭が真っ白になって。旅行会社からの慰霊金とか、あの人たちがもしもの時の為に入っていた、保険金とか。
 そんなものばかりが、僕の手元に入ってくる。
 欲しいのは、そんなものじゃないのに。もう一度、あの笑顔が見たいのに。
 ――・・・・・・大丈夫。俺が、一緒にいるから――
 そんな僕に、兄さんは優しく声を掛けてくれた。その声が、とても温かくて。僕は、泣いた。涙が枯れ果てても、泣き続けた。
 兄さんは、いつでも優しかった。無愛想で、ぶっきらぼうで、とんでもなく不器用だったけど。それでも、優しかった。
 ――あれ?――
 そこで、僕は気付く。有り得ない筈の、矛盾を。一体、何が食い違っているのだろう。分からない。分からないけど、何かが矛盾している事だけが分かる。何だ、何が違う。
 必死に、記憶の糸を辿る。しかし、そんな僕を嘲笑うかのように、意識は緩やかに浮上していった。
 ――ジリリリリリリリッ!!!――
喧しい、目覚し時計の音。寝ぼけ眼を少し開き、歪む視界で時計を視界に納める。布団から腕を伸ばし、僕は目覚ましを止めた。
 あれほど五月蝿かった音は水を打ったかのように静まり、部屋には静寂が訪れた。しかし、だからと言って二度寝をする余裕も無い。
「ん・・・・・・」
 ゆっくりと起き上がり、軽く頭を振った。
 まだ、脳が寝ている。顔でも洗おう。この寒さだ。きっと、水も刺すように冷たいに違いない。
 欠伸を噛み殺し、制服に着替える。
 自室を出て、まず洗面所に向かった。ジャバジャバと水が落ち、飛沫が頬に散る。僕はそれをすくって、顔を洗った。
 予想通り、冷たい水。意識は否応なしに覚醒し、僕は完全に目が覚めた。
「・・・・・・ふぅ」
 軽く息を吐き、リビングに向かう。恐らく、今日も功が朝飯をまだかまだかと待っていることだろう。
 昨日、今日は洋食だと公言したため、僕はハムエッグでも作ろうかとリビングに入った。
 視界に入ったのは、何か文集みたいなものを食い入るように見続ける功と、顔を顰めて机に突っ伏している兄さん。異様だ。この光景は、本当に異様だ。
「何してるの?」
 功に聞いてみる。すると、功は見ていた文集を僕に突き付けた。
「見てみろよ!」
「いや、近いよ。真っ暗で何も見えない」
 少し下がり、その文集を眺める。この字からして、多分幼稚園か何かの文集だろう。でも、これが?
 何かを言いたげな功。僕は、書かれてある文章を読んでみた。
「ぼくは、おおきくなったら、ごせんぞさまみたいなけんごうになりたいです。それで、けんごうになったら、おもちゃをかいたいですぅ?」
 何、これ。
「驚くだろ。なんとこれは、この俺の幼稚園時代の夢なのだ」
 で?
「こんな事書いてたんだなぁ。あっはっは! こっぱずかすぃ!」
 言いながら、バンバンと僕の背中を叩く功。いや、それだけ? それだけで、僕は朝食の準備を遅らされたの?
 この怒り、どうやって晴らしてくれようか。
「・・・・・・悠、飯」
 小さく、兄さんが呟く。
「そうだぞ。早くしてくれないと、お腹と背中がくっつきそうだ」
 オノレ、この腐れ外道が。この恨み、絶対に晴らしてやる。
「・・・・・・功は、爪でも齧ってなよ」
 冷めた声で言って、朝食の準備を始める。後ろでは、やっぱり爪を齧っていた。
 手早く調理を済ませ、出来上がったハムエッグをテーブルに並べる。こんがりと焼けたトーストと一緒に。
 そうして始まる、いつもの朝食風景。
 今日もまた、昨日と同じようで違う日常が始まる。それが何か嬉しくて。僕は、気が付くと笑みを浮かべていた。
「? どうした、悠」
「・・・・・・何か、可笑しいのか?」
 何でもないと首を振る。功と兄さんは、揃って訝しげな顔をしていた。
 朝食を終え、鞄を取りに自室へと戻る。窓からは燦々とした朝日が入り込み、室内を明るく照らしている。これだけ見ると外はとても暖かそうなんだけど。
 いつものようにコートを着て、鞄を持つ。
 ・・・・・・今日は、変な目眩は起こらなかった。
 急いでいたのだろう。慌ただしく兄さんが出て行く。
「・・・・・・戸締りは忘れるな。行ってくる」
「いってらっしゃい」
 いつもの決まり文句を言って、家を出て行く兄さん。スーツの後ろ姿が遠ざかっていく。さて、僕も出発しないとな。
 戸締りを確認して、歩道に出る。例によって功はブツブツと文句を言っていたが、僕は完全無視を決め込んだ。あまりしつこい性格はしてない功は、僕が取り合う気がないと見ると、それっきり黙ってしまう。
 僕たちの登下校は、大半が無言で始まり無言で終わっていた。
 いや、何度も言うけど、話す事とかないし。
 白い吐息を天に昇らせ、終盤である秋の歩道を歩く。街路樹は枯れはて、冷風にその枝を擦らせている。
 ・・・・・・寒い。今日は、また一段と寒い。
 しかし、功はそんな寒さは何処吹く風で悠々と歩いていた。コートを着ている僕でさえ寒さを感じるのに。
「暖かそうだね」
「そうか? いや、やっぱそう思うか?」
 言って、ちょっとニヒルな笑みを浮かべる功。
「実はな。今日は、学ランの下にジャージを着てきたんだよ」
 そう言えば。詰襟から、黒い襟が覗いている。でも、それだけで温かくなるんだろうか? ジャージは風を通すから、返って逆効果な気もするけど。
「・・・・・・何でジャージなの?」
「そりゃお前、アディ○スだからだよ。ナ○キじゃないからだよ」
 ・・・・・・訳わかんない。いや、功に筋の通った説明を求めたのが間違いだったか。僕は、深く溜め息をついた。
「・・・・・・でも、その割にスニーカーはナ○キじゃないか」
「そりゃお前、アディ○スじゃないからだよ」
 ・・・・・・もういいや。いい加減、疲れた。
 功にも、功なりのこだわりがあるのだろう。それは僕が口を出す事でもないし、何より口を出して関わりを持ちたくない。
 無意識の内に、功のこだわりに染められそうだから。
 そんなこんなで、僕たちは学校に到着した。始業ベルまでは、あと二十分もある。まったくもって、余裕の到着だ。
「それじゃ、部活でなっ!」
 この学校は、学年ごとに二つの校舎に分けられている。AからDまでが西棟で、EからHまでが東棟。各学年八クラス。一クラス三十人構成だから、少なくとも学年ごとに二百四十人いるという計算になる。まったくもって出鱈目な学校だけど、来るもの拒まずの校風なのだから仕方が無い。
 それに、二百四十人と言っても、学校をボイコットする生徒もいるわけなのだから。実際に授業を受けるのは、五十人減の数。それでも、十分多いけどね。
 と、いう訳で、Gクラスの功は東棟に向かって。Bクラスの僕は当然西棟に向かうのだった。

―――――――

 教室は、いつに無く賑やかだった。所々で笑い声が上がり、重なり合った声は教室内を突き抜けて廊下にまで到達している。
 そんな中、僕は自分の机まで歩いていった。言葉のアーチを潜りぬけ、机に鞄を置く。
 皆、朝から元気だなぁ。
 しばらくガヤガヤとした空気が続いて。しかしそれは、おもむろに破られる事になった。
 ガラガラという扉が開く音と共に教室に入ってきたのは、我らが担任の若手新米教師。ではなく、何故か教頭と校長だった。
 教壇まで歩くと、校長はもったいぶった咳き込みをする。視線は、当然のように校長及びオプションの教頭に釘付けだ。
 突然の到来に、混乱を隠せない生徒たち。それは、僕も然りだ。先生はどうしたんだろう。
「え〜。突然ですが、残念なお知らせがあります」
 何だ何だと、にわかに教室が騒がしくなる。それを、教頭は手を打ち鳴らせて静めた。
「担任であった百済先生は、先日、事故により入院してしまいました」
 ・・・・・・入院? 昨日まではあんなに元気だったのに、一体どうしたというのだろうか。
 皆、頭の上に同じような疑問符を浮かべる。校長は、誤魔化すように咳払いを一つ。
「そんな訳で、今日のホームルームは代理で私が行なう事になりました」
 言って、校長は連絡事項を述べ始める。いや、それはいいんだけど。どうして教頭まで一緒なんだろうか。
 ホームルームだけなら、一人で来てもいいのに。ていうか、普通は一人で来るんじゃないのかな。
「・・・・・・連絡事項は、以上です。何か、質問はありますか?」
 無言で首を振るクラスメイトたち。それを見た校長は頷き、ファイルを片付ける。
「では、授業は平常どおり行ないます。週の最後、気を抜く事の無いように」
 言って、教室を出て行く校長と教頭。最後まで、教頭は喋らなかったな。本当に、何なんだろう、あの人。
 それにしても、入院かぁ。突然の事故か何かかな。
「なぁ、佐々木」
 そんな事を考えていると、前の席の生徒が振り返った。
「百済先生って、現代国語の担当だろ?」
「うん。そう言えばそうだね」
「だろ? その先生がいないんだったら、誰が担当するんだろ」
「さぁ? 適当に、自習とかになるんじゃない? それか、東の先生が臨時で教えるとか」
「東の、ねぇ。大変だよな、東の先生も」
「そうだね」
 ・・・・・・この会話で分かっただろうか? この学校には、東棟と西棟それぞれに先生がいるのだ。教師の数も普通の高校の二倍という、この学校のすごさ。県立で、どうやってこれだけの学校を維持してるんだろうか。甚だ疑問である。
 そんな感じで前のクラスメイトと喋っている内に、一時間目のチャイムが鳴り響いた。
「あっ、やべ。一時間目、数学だ」
 言いながら、いそいそと前を向いて準備をするクラスメイト。何がやばいんだろうかと首を傾げつつも、僕は準備を進める。と言っても、教科書とノートを机の上に出すだけなんだけど。
 教室の引き戸が開かれ、黒ブチ眼鏡の数学教師が教室内に入ってくる。
 日直の立礼。お願いします、と挨拶。それら一連の行動が終わったあと、教師はおもむろにこう切り出した。
「皆、宿題はやってきたかな?」
 ・・・・・・宿題? 何の事だろう。
 周りでは、クラスメイトたちがいそいそとプリントを取り出している。それを見て、僕は思い出した。教科書に挟まれているプリント。今思い出したということは、当然それは白紙なわけで。
 しまったと思うが、もう遅い。
 教室内を見渡していた教師の目は、そんな僕に釘付けだ。
「・・・・・・佐々木。もしやとは思うが・・・・・・」
「あは、あははははっ」
 これは、もう笑うしかない。笑って、笑って、一しきり笑った後。
「すみません」
 素直に謝った。
 爆笑に包まれる教室。教師はやれやれと首を振って、答え合わせを開始した。
 彼がやばいと言っていたのは、このことだったのか。見れば、その彼こと目の前のクラスメイトはプリントに鉛筆を走らせている。彼も、宿題をやっていなかったのである。
 位置的に、僕より先に彼が目に入りそうなもんなんだけど。得して、世の中は理不尽だらけなのである。受け入れよう、うん。
 ちなみに、宿題をやっていなかった彼も教師にバッチリ見つかっていたらしく、僕と彼はいつもの二倍という量の宿題を手渡されたのであった。

―――――――

 昼休み。それは即ち、昼食の時間である。大抵の生徒は弁当持参だが、中には学食をこよなく愛する生徒も多数いるわけであって。
 昼休みの学食。それは即ち、戦場なわけである。それはもう、ヴェトナム戦争もかくやと言わんばかりの。規模的に言って、凄まじいの一言に尽きる。
 チャイムが鳴り響いた次の瞬間には、廊下は走る闘牛の群れ。巻き込まれれば、無残な姿となって十分後くらいに弁当持参の生徒によって回収される。たまに、保健室直行の憐れな生徒もいる。その大多数は、乗り遅れた生徒たちだ。
 で、運良く群れに乗って食堂まで辿り着いたとしても、そこは先ほどの地獄が天国に思えるほどの状態。
 食堂の位置は、丁度東棟と西棟に挟まれる形で存在する。当然、向かい側からは東棟の生徒も駆け込んでくるわけだから。先頭集団はそのまま、東棟の生徒と戦闘状態に陥る。一歩も引かない、飢えた獣の争い。手に汗握る大スペクタクルである。
「退けや、この腐れ東がぁっ!」
「ああ!? てめえが退きやがれ、この西のボケがぁっ!」
 罵倒が飛び交い、もはや誰が何を言っているのかが分からないこの状況。傍から見れば、子供の言い争いである。しかし生徒にとっては、昼飯が食べられるかどうかの死活問題なのであった。譲る事を知らない生徒達が先頭を走ってしまうので、毎日のように同じ光景が繰り返されている。
 そんな混乱を掻い潜り、こっそりとパン売り場へ向かう僕。皆、戦闘に興奮しきって昼飯が二の次になっている。
「おばちゃん。焼きそばパンとコロッケパン」
 お金と引き換えに手渡される二種類のパン。僕はホクホク顔でその場を後にした。
 学食専用テーブル。そこの椅子に腰を下ろし、コロッケパンを頬張る。やっと混乱が収まったらしい売り場では、押すな押すなの行列が出来ていた。
「・・・・・・お前は、いっつも要領いいな」
 呆れたように言って、誰かが僕の前に座る。その手には、天ぷらそばが。
「仕方ないよ。皆、買う気がないんだから」
 言いながら、二口目。功は溜め息を吐いて、そばを啜った。
「普通は、あんな狭い間を抜けられないって。俺でさえ、混乱が収まる頃に動けるようになったのに」
「あはは。西棟の生徒は隙間を結構作るからね。それに比べて、東はいつもギチギチじゃないか」
「皆、前に前に進むからだよ」
 呆れたように言って、そばを啜る功。僕はコロッケパンを食べ終り、焼きそばパンに手を伸ばした。
「さっさと進めやぁっ!!!」
「っせぇぞ、ボケがぁっ!!!」
 並んでも尚、罵倒は尽きない。本当、教育上よろしくない場所だね、ここは。
「・・・・・・あ〜、美味しい」
 昼食時の戦争は、こうして幕を下ろしたのであった。僕たちだけだけど。

―――――――

 放課後。昨日と同じく、道場に向かう僕。道場では、やっぱり練習熱心な後輩たちが先に自主練習を始めている。
 胴着に着替えて、竹刀を手に取る。
 ――ドクン――
 通り過ぎていく景色。鉄が、視界を抜ける。広がる強いオレンジ。誰かが、血を流しながら・・・・・・。
 あれ? おかしいな。何か、何かがざわつく。
 柄を握る手に力を込める。でも、意志に反して力は抜けていった。
 乾いた音を立てて、床に落ちる竹刀。剣を握る辛さは、思いの外、かなり大きかったようだ。
「先輩?」
 後輩の一人が、声をかけてくる。僕は軽く頭を振って、竹刀を手に取った。
「大丈夫ですか?」
「ああ、うん。大丈夫だよ」
 笑みを作り、そう言った。後輩は明らかな安堵を残して、自主練習に戻っていく。
 本当に、どうしたんだろう。身体を包んでいた気だるさは既に吹き飛び、いつもの状態に戻っている。部活をやっても、問題は無さそうだけど。
「大丈夫、かな」
 軽く、跳んでみる。うん、大丈夫。平衡感覚も、ちゃんとある。
 まったく、貧血かな。最近、弁当を作ることをサボっていたからなぁ。栄養が偏ったんだろうか。
 来週から、昼食は弁当に戻そう。うん、それがいい。昼休みの戦争は、正直疲れるし。
「あ、それだったら、功が文句を言ってきそうだなぁ」
 俺の分も作れ、とか何とか。
 ま、でも別にいいか。その時は、その時だ。
 さあ、功も来たようだし、練習を始めよう。

―――――――

 部活も終わり、僕と功は帰路に着いていた。さすがに秋の終盤、冬の始まりといったところか。もう日は沈みかけていた。
「それじゃあ、僕は買い物があるから」
「おう。じゃあ、また明日な」
 商店街で功と別れ、僕は光の漏れる商店街へと足を踏み入れる。
 見知った魚屋のおじさんとか、八百屋のおばさんとか、肉屋のバイトとかが声をかけてくる。
 内容は全て、「安いよ」とか、そう言う類のもの。冷蔵庫のストックも無くなってきていたので、僕はこの気に乗じて買い溜めをすることにした。
 買い溜め。沢山の商品を、一度に大量に買い込むこと。動詞、かな? いや、もしかしたら名詞かもしれない。と、そんなどうでもいい事を考えたり考えなかったりして、僕は買い物を続けていく。最近、近くに出来た大型デパート。商店街の個人商店は客を取り戻そうと、毎日のように赤字覚悟で値を下げている。
 それでも、客は戻ってこない。さすがは大型デパートと言うべきか。毎日のようにCMを流し、ポイントカードでお得みたいな事を客に売り込み、何とかセールみたいなものを連日続けている。
 そこら辺が、チェーン店の強みだ。
 ま、当然客はお得だとかそんな理由でデパートに行くわけで。おばさんに誘われたおばさんがおばさんを誘い・・・・・・、と言った鼠算式に増える、デパートの客。
 大型デパートよりも、個人商店の方が質のいい物を置いてあるのに。本当、日本人は右向け右が大好きな種族だ。
 しばらく歩くと、両手は当然塞がってくる。買い溜めをすると言うことは、一人ではとても無理のあることなのだ。それなのに一人で買い物をする僕に、ツッコミを入れたい人は沢山いるだろう。さっきまで、一人丁度いいのがいたのに、と。
 でも、いくら親友と言ってもこれは家庭の事情。友人を、雑用として使うのは僕の心がそれはもう許さないのであった。
 ずっしりとした買い物袋。その量に反比例するように、財布の中身がどんどん少なくなっていく。諭吉一枚が、野口三枚に変わるのはそう時間の掛かることではなかった。
 一通り買い物を終え、商店街を後にする。と、そこで僕は兄さんと遭遇した。なんて偶然。
「・・・・・・買い物か」
 仕事帰りなのだろう。スーツ姿に、手には書類の詰まった鞄。今日も大変だったろうに、顔色一つ変えないこの人はどういう鉄人なんだろう。時々、不思議に思うのだった。
「うん。少し、持ってくれる?」
 言って、左の袋を差し出す。兄さんは軽く頷いて、それを受け取った。
 街灯の照らす道を、並んで歩く。互いに、無言。基本的に無口な兄さんに、話題を求めるのも間違っているのだけど。かと言って、僕から話題にするような事は何も無いのであった。
 アスファルトを蹴る靴の音が、夜の道に虚しく消える。
「・・・・・・明日、休みか」
 何の前触れも無く、唐突に。兄さんは、そう聞いてきた。
「そうだけど」
「・・・・・・そうか」
 会話終了。仕方が無い。ここから話を膨らませるなど、話術士でも不可能だろう。下手に会話を繋げようとすると、余計に空気が重くなる。
 それを知っている僕。だから、この時は魔が差したのだろう。多分、そうなのだ。
「それが、どうかしたの?」
「・・・・・・別に」
 ほら、空気が重くなった。
「・・・・・・明日、渡したいものがある」
 と、兄さんが呟く。会話が繋がった。
「渡したいもの?」
「・・・・・・明日。全ては、明日だ」
 視線を前に向けたまま、淡々と言葉を紡ぐ兄さん。僕は、その言葉に何かを感じていた。
 そんなこんなで、家に辿り着く。兄さんが鞄から鍵を取り出して、扉を開けた。左手は買い物袋で塞がっているのに、どうやって鍵を取り出したのだろう。やっぱり、この人はどこかの超人である。
 リビングに上がり、買い物袋をドサっとテーブルに置く。肉とか、野菜とか、その他諸々を冷蔵庫に入れる。
 さて、今晩は何を作ろうか。
「兄さん、何か食べたいものでもある?」
「・・・・・・美味ければ」
 美味しければ、何でもいいのだろう。僕は頷き、秋刀魚を取り出した。
 時刻は、七時過ぎ。手早く出来る、焼き魚で決まりだ。
 下ごしらえを終え、コンロに火をかける。兄さんは兄さんで、手伝う事無く黙々と書類を整理していた。
 いい感じに焼き上がった秋刀魚を、テーブルに並べる。
 沈黙で進行する、晩餐。もう慣れたけど、もうちょっと賑やかでもいいんじゃないだろうか。しかし、兄さんにそんな事を望むべくもないし。
 ・・・・・・今日一日の終わりは、いつに無く静かだった。




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