深い深い暗闇の中。光の無い漆黒の中、僕は夢を見ていた。
ノイズが走る。向こう側には、見た事も無い風景が広がり、それが僕の胸を締め付ける。いつもと同じ夢。泡沫の景色。
須らく、それは幻。虚ろな幻影。
でも僕は、それを知っているような気がして。それを知らない気がして。
曖昧な境界線。それを分けるのは、知らないという、その事実のみ。
ノイズが激しくなる。
――ザ、ザザ、ザザザザザ――
ノイズは砂嵐に変わり、完全に向こうとこちらは断絶される。完全に視界が塞がれ、再び訪れる漆黒。
緩やかに浮上していく意識。ゆっくりと、現実に向かって進んでいく。
――まだ、繋がらない――
そんな声を聞いた気がして。そうして僕――佐々木悠は覚醒した。
机から身体を引き離し、大きく伸びをする。
「・・・・・・ああ、そうか」
どうやら、昨日はレポートを仕上げる途中で眠ってしまったらしい。そこら辺に、書きかけのレポートが散乱していた。
欠伸を噛み殺し、堅くなった身体を解す。無理な姿勢で寝ていたせいか、節々が痛い。
立ち上がり、カーテンを開ける。差し込む光が室内を明るく照らし、そこで僕は完全に眼が覚めた。
「そうだ、朝ご飯」
時計を見れば、時刻は午前六時半。グズグズしている暇は無く、僕は足早に部屋を後にした。
階段を降り、リビングに向かう。
リビングには、いつもの通り見知った顔がいた。
まるでそこにいるのが当然と言わんばかりに、椅子に座っているその顔。彼の指定席と成り果てたそこは、もうそれだけで我が家の異界だった。
「おう。今日も早いな、悠」
軽く手を上げて、僕より早く席に座っている彼は挨拶をする。
僕は溜め息をついて、台所へ向かった。
「今日は、あっさり和風がいいな」
後ろから声がする。いつもの事だ。
「昨日までは洋食だって言ってたくせに」
「いいだろ? 気分なんだよ、今日は」
そう言って、テーブルの上の新聞を広げる彼――宮本功。僕は、もう一度溜め息をついた。一体、何がどう気分なんだろうか。
手早く支度を始める。功が家に来るようになってから、早二年。もう、こういった事は慣れっこである。
ご飯は昨日の夜に炊いてあるからいいとして、問題は魚かな。さて、秋刀魚にしようか鯵にしようか。冷蔵庫を覗きながら、一人考え込む。秋刀魚と言えば、「また秋刀魚かよ」って文句をつけてきそうだし、かといって鯵って言えば「旬じゃない」って文句をつけてきそうだ。・・・・・・まぁ、どちらも魚である事に変わりはないのだけど。
「・・・・・・おは・・・・・・よう」
そうやって冷蔵庫の前で一人苦悶していると、リビングの入り口で声がした。振り向かなくても、このとてつもなく不機嫌そうな声がなんであるのかは容易に想像がつく。って言うか、功と僕を除けばこの家にはもう一人しかないわけなのだ。
「おはようございます、千夜さん」
元気にそう挨拶する功。僕も振り向かずに挨拶をし、結局秋刀魚を手に冷蔵庫を後にした。
「・・・・・・朝から元気だな・・・・・・宮本。まったくもって、信じられんよ」
額を押さえながら、極端に朝に弱い我が兄が食卓に着く。佐々木千夜。弁護士である彼は、不快そうにその端整な顔を歪めてテーブルに突っ伏した。
まぁこれもいつもの事。功は挨拶だけ済ませると、後は僕の作る朝食を今か今かと待っている。朝から彼に多くを話し掛けてはいけない。コレが、ここに半寄生状態の功が導き出した結論であった。
今日も美味しいものを作ってくれるんだろう? ・・・・・・そういった視線を、背中に感じる。いや、刺さる。
僕は秋刀魚の腹に軽く切れ目を入れて、主菜の焼きを開始した。
両親がいないこの家庭では、料理の出来る僕が必然的に朝の母親代わりとなる。兄さんは、料理は出来るけれど、いかんせん朝に弱い。弱すぎる。そこら辺を飛び回る蚊のように弱い。もう、叩けばその胃の中のものを全てぶちまけてしまいそうである。
「・・・・・・吐きそうだ・・・・・・」
「・・・・・・トイレで吐いてね・・・・・・」
言ってる側から、これである。
魚が焼ける間を利用して、味噌汁を作る。いつもの手順。恐らく、世の奥様方の最たるを占める調理パターン。
「ね〜。ま〜だ〜?」
「・・・・・・爪でも齧ってれば?」
「くそぅ。なんて冷めた受け答えなんだ・・・・・・ガリガリガリ」
言いながら、本当に爪を齧る功。僕はそれを無視して、焼けた秋刀魚を皿に移し変えた。
人数分をテーブルに並べると、嬉々として功が箸を手に取る。秋刀魚の焼けた匂いにムッとする兄さんは、渋々ながら箸を手に取った。ちなみに僕は、いたって普通である。う〜ん。まさに三者三様。
がっつく功。身をちびちび口に運ぶ兄さん。そして、普通に箸を動かす僕。
それぞれに、それぞれらしい朝食の取り方。ふと、忙しなく箸を動かしていた功がその動きを止めた。
「なぁ、悠」
「ん? 何?」
「・・・・・・今日は、部活に来るのか?」
少しだけ溜めて、そう言う功。部活、かぁ。はっきり言って、最近はめっきり顔を出さなくなったな。家の事もあるけど、それでも少しは顔を出してみるかな。
「・・・・・・うん。今日は大丈夫だよ」
「そっか」
頷き、再びがっつく功。僕は、少し目を伏せた。
何でだろうか。ここ最近、剣を持つ事が少し辛い。何かこう、胸を掻き毟られる感じがして。何かが、上手く言えない何かが足掻いているような。
「・・・・・・悠」
今まで黙って朝食を取っていた兄さんが、不意に声を掛けてくる。
「・・・・・・無理は、するなよ」
ぶっきらぼうに、だからこそ想いのこもった声。僕は、ただ頷いた。
朝食を終え、身支度を始める。制服に着替え、その上に藍色のロングコートを着る。秋も終りに近づき、肌寒い季節となってきた。ここの所、異常気象のせいか、そんな季節の中でも今日は一段と寒い。雪が降ってきてもおかしくないほどの、真冬の寒さだった。
学校指定のコートには、肩口に校章が刺繍されている。高校の校章にそれほどセンスは望めないが、僕はこの校章を気に入っていた。
鞄を手にして、玄関に向かう。
玄関前で、功が待っているはずだ。急がないと、色々と面倒な受け答えをしなくちゃいけなくなる。それだけは、避けないと。
一歩を踏み出す。ドアノブに手をかける。捻る。心臓が、一回だけ大きく波打った。
「・・・・・・っつ」
一瞬だけ、緑が見えた。
軽く頭を振り、一瞬の幻影を振り払う。時計を見れば、針は結構ギリギリの時間を指していた。・・・・・・急がないと、遅刻だ。
リビングを通り、玄関に出る。靴を履く兄さんの後ろ姿。今日も今日とて、お早い出勤。
「行ってくる。多分、帰りは遅くなるから・・・・・・」
言い残し足早に出て行く兄さん。僕はそんな兄さんに行ってらっしゃいと返し、自分の靴を履いた。
外に出て、玄関の鍵を閉める。よし、戸締りは完璧だ。
「おせぇぞ、悠」
「ゴメンゴメン。それじゃあ、行こうか」
いつもの道を、並んで歩く。吹きぬける風は凍えそうなほどに冷たく、頬が痛くなる。まったくもって、おかしな気候だ。
特に話すことも無いので、会話も無く黙って歩く。車道を行き交う車が道を埋め尽くし、排気されるガスは白く天に昇る。幻想的な表現だが、有り体に言えば真冬の歩道でよく見られる景色。別に、珍しくも無い。こんな気候ですらなかったら。
「あ〜、さみぃ」
白い息を吐きながら、功はぼやく。僕は「そうだね」と返し、薄く濁った空を見上げた。何でだろうか。とても、嫌な予感がした。
「悠。ちゃんと前見ないと、危ないぜ?」
言われ、視線を前に戻す。視界に飛び込んできたのは、犬の糞。嫌な予感って、コレの事かっ!
爪先と糞との距離、僅か三十センチ。僕の歩幅からすれば、足を上げて踏み出せばベチャっと行くだろう。なら軌道を変えればいい話だけど、悲しいかな既に足は地に着いてはいなかった。
「お、おおぅっ!」
反射的に軌道を変え、踏み出した足を糞の真横に落とす。あ、危なかった。
「・・・・・・チッ」
何故か、舌打ちをする功。そんなに僕が踏むところを見たかったのか。何かムカツクな。
「惜しい、惜しいぜ悠」
「何がだよ」
「もう少しで、起こりそうでなかなか起こらない事が目の当たりに出来ると思ったのに」
「・・・・・・じゃあ、君が踏みなよ」
「嫌だよ、汚ねぇ」
「僕だって嫌だよっ!!」
こうして、不毛な言い争い(?)は続いてゆく。基本的には、僕が功にツッコミを入れるだけなんだけど。
そうして、学校に到着する。どこにでもある、県が建てた県立高校。校則はいたって緩やか。煙草、酒、賭博以外なら、別に何をしてもいいんじゃね? って言う、非常にオープンな高校。来るもの拒まずの校風から、入学試験は無し。そのために結構ヤンチャな人たちが多い。それが、僕たちの通っている学校。
いつものように、校門には屈強な体育教師が立っている。遅刻しようものなら、この教師の非常に有り難いご高説が聞ける。五時間に渡って、正座で。結果として、ノイローゼとなった生徒多数。
そのおかげか、年間遅刻者数は数えるほどしかいない。そりゃ誰だって嫌だろう。たとえ一秒の遅れでも、説教なのだ。生徒たちは、自然と早起きを身に付ける。何でも、それが学校側の狙いなんだそうで。ちなみに、この教師に掛かればどんな不良学生でも一日で更生してしまうという。
「それじゃあ、部活でなっ!」
手を振り、自分の教室に向かって走っていく功。何で、あんなに急いでるんだろ。
キ〜ン、コ〜ン、カ〜ン、コ〜ン
予鈴が鳴り響く。そうか、そういう事だったのか。
今頃、慌てる僕を想像して奴は悦に入っているのだろう。
「だ〜、くそっ!!」
走る。校舎に向かって。これから、いつもと同じ学校生活が始まる。何故かは分からないけど、自然と頬が緩んでいた。
僕があいつと、宮本功と知り合ったのは、本当に偶然からだった。
一年の頃。何の気なしに、僕は剣道部を覗いていた。前々から、興味はあった。佐々木という姓。昔、父さんは言っていた。佐々木家は、ぶっちゃけ佐々木小次郎の子孫なのだ、と。正直、「だから?」って話だった。でもそれを言うと父さんはムキになるから、僕は黙って話を聞いていた。
そんな日が続いていて。だからかな? 僕はいつからか、剣に興味を持ち始めた。けど、残念な事に僕が通っていた中学校には剣道部が無くて。
裏庭で、見よう見まねの剣道をしていた気がする。もちろん、木の棒を振り回すだけの、とても剣道と呼べるものじゃなかったけど。
そうして振り回して。いつからか、自分の動きを把握できないほどの事をしていた。
それを見た父さんは喜んで、母さんは父さんほど派手じゃなかったけど、嬉しそうに微笑んで。
だから、正直に言えば剣道部に入りたかった。そうすれば、父さんも母さんも喜んでくれるから。
父さんと母さんが死んだ後も、その想いは消える事は無かった。だから、今僕はここに立っている。
――ん? 何、お前――
後ろから声をかけられた時。僕は、首筋に熱い何かを感じた。
振り返れば、そこにいたのは僕とはまるで正反対の男子生徒だった。ボサボサっとした髪を茶色に染め、ツンツンと立たせて。一見して、お世辞にも真面目そうとは言えない男子生徒。その手には、竹刀袋が握られていた。
――君は、剣道部なの?――
聞かなくても分かるだろ? と肩を竦める男子生徒。何だか、馬鹿にされてるみたい。
――で、お前、何? 入部希望?――
――う〜ん。入部希望って言うか、見学希望って言うか・・・・・・――
――あっ、そう――
素っ気無く言って、男子生徒は道場内に声をかける。部長、と聞こえる。この生徒は、部長を呼んでいた。
そこからは、人の良さそうな部長に言われるがままに見学をしていた。慣れない、板張りの床での正座。足が痺れそうになる。でも、僕は道場内での練習に目を奪われていた。
今まで模倣していたものが、そこにある。それが、何だか嬉しくて。
――竹刀でも、振ってみるかい?――
よほど熱心に見ていたのだろう。部長が、そんな僕に声を掛けてくれた。
もちろん、僕は二つ返事で頷いた。やらせてください、と。
今までの、木の棒とは違う。竹の剣。僕は教えられるままに、素振りをした。
――君は、なかなか筋がいいね――
そう言われたのが、とても嬉しかった。
そんなこんなで、僕は剣道部に入部した。元々、剣道の真似事はしていたのだ。元の型を教えてもらえれば、それで事足りた。
指導してくれたのは、同級生だからと言う理由で彼だった。彼は不本意そうだったが、それでも真剣に指導してくれた。
僕と彼が友達に、親友になったのは、それからだった。
彼が宮本という姓で、あの剣豪、宮本武蔵の末裔だと言う事も、しばらくして聞かされた。小次郎と、武蔵の末裔。でも、そんな事は関係ない。
僕と彼は、本当の意味での、友達なのだから・・・・・・。
放課後。僕は、机の中に入れていた教科書を鞄に押し入れ、帰りの準備を進めていた。
「なあ、佐々木」
クラスメイトが、声を掛けてくる。
「今日、カラオケいかね? 丁度、あと一人欲しいんだけど」
「ゴメン。僕、今から部活があるんだ」
その誘いを、やんわりと失礼の無いように断る。クラスメイトは残念そうに、「そっか」とだけ言った。
さて、あまりゆっくりとしていられない。行くのであれば、早々に道場に向かわないと。あんまり遅くなったら、それこそ功に何を言われるか分かったものじゃない。
鞄を持ち、教室を出る。その足で、直接道場に向かった。
グラウンドを横切り、体育館の丁度真横に位置する道場に向かう。この学校は部活にも結構力を入れているところで、各部活、体育系文科系問わず設備は充実している。なんでも、校長が「部活こそ青春」理念を掲げているらしい。
だから、部員の少ない部活にも勿体ないくらいの設備が揃っている。天文部とか、写真部とか、登山部とか、はたまた美術部とか。そういった所は、大体文科系が多い。
幸いにも剣道部は盛況で、部員総数三十人と言う結構な大所帯となっている。
で、それをまとめているのが現主将である功なのだ。ちなみに、僕は副主将をしている。
一礼して、道場に入る。一面板張りの、広々とした空間。板の下にはスプリングが敷かれており、剣道をするには十分すぎる環境が揃っている。
道場内では、すでに一、二年のやる気のある部員が自主練習に励んでいた。
「ちゃーす!」
僕の姿が目に入ったのだろう。練習を中断して、挨拶をしてくる後輩たち。
「今日も早いね」
いつものように言って、僕は更衣に移った。
制服から胴着に着替えるのに、五分以上掛かってはいけない。それが、この部でのルール。手早く着替え、竹刀を持って道場内に出た。
使っていないスペースを使って、素振りを始める。
竹刀を後ろに振り上げ、体重移動をもって振り下ろす。
――ヒュン――
相手が目の前にいると仮定し、その正中線を叩き割るつもりで、振り下ろす。決して、止めない。あくまで、振り下ろす。正中線を割れない事には、有効な打突は望めない。まずは、その感覚を掴まなければいけない。相手がいない時の、素振りの時の鉄則だ。
始めから面の付近で止めてしまうと、どうしても剣がぶれてしまう。そのぶれを最小限に押さえるための、素振り。
他の学校がどうかは知らないが、これがこの学校での、剣道部での決まりごとだった。
振り下ろした竹刀を素早く振り上げ、体重移動と共に振り下ろす。腕の力はいらない。必要なのは、体重移動と腰。竹刀は、それに勝手に着いて来てくれる。
――ヒュン、ヒュン――
何回も、何回も繰り返す。余計な事は考えない。一回一回を真剣に。一回で、試合を終わらせるつもりで。何回も、何回も繰り返す。
絶え間ない反復。身体に染み込ませる、最も有効的な手段。
しばらくして、部員が集まり始めた。
「おっ、今日は早いんだな」
功が、素振りを続ける僕に話し掛けてきた。
「うん。二日も休んじゃったから、勘を取り戻さないと」
素振りを中断して、僕はそう答えた。
「はっはっは。二日じゃ身体は忘れないもんだよ」
笑って言って。そうして、功は更衣室へと消えていく。
僕はその後ろ姿を笑みで送り、竹刀を納めた。
「先輩!」
後輩が、僕を呼んでいる。
「ん、何?」
「小手打ちの速度を上げたいんですけど、なかなか上がらなくて」
困ったように、後輩は言う。僕は、一回その打ち込みを見せてもらった。
強い踏み込みと共に、鋭い小手打ちが空を打つ。速さは、文句なし。身体も、ちゃんと崩れていない。
「う〜ん」
どうアドバイスすればいいんだろう。
「少しだけ、動きに緩急をつけてみたら? 一から十まで速いだけじゃなくて、少し遅いタイミングをつけるとか。そうすれば、向こうもいきなりの速度変化に驚くと思うし」
「はい。やってみます」
頷き、即実行に移す後輩。何度も首を捻りながら、何度も踏み込みながら。何度も練習していた。
僕は、邪魔にならないようにその場を離れる。
「それじゃあ、そろそろ始めようか」
功が更衣室から出てくる。僕は頷き、部員全員にそう声をかけた。
総勢三十人の部員が、竹刀を手に取って整列する。そうして、今日の練習が始まった。
空が茜色に染まる時間。三時間に渡る練習を終え、ぞろぞろと道場を後にする部員たち。僕と功はその姿を見送り、帰り支度を始めた。
広い道場。練習後、その道場の掃除をするのは、決まって僕たちだ。
後輩たちは、わざわざここに練習をしに来てくれる。そんな後輩たちに感謝の意を込めて、主将および副主将は最後のモップがけをしなくてはならない。二年前、当時の主将だった人がよく言っていた言葉だ。
功はその先輩を尊敬していたから、今でもそれは続いている。僕は、別に文句はないから付き合っている。正直、僕もあの人には憧れてたし。
「よ〜し。こんなところか」
ざっとモップをかけ、埃を集めて掃除は終了。功は手早く慣れた手つきで箒と塵取を使い、埃を集めている。僕はその近くにゴミ箱を持って行き、集められたゴミはそこにポイ。いつものことだ。
「じゃあ、帰ろっか」
「おう」
道場内に一礼して、外に出る。吹き抜ける風はやっぱり冷たくて。いつまで、この異常気象は続くんだろう。
コートの裾が、風にはためく。バサバサと鬱陶しいが、脱ぐことは考えられない。寒いし。
隣では、鞄を肩に担いだ功が並んでいる。互いに、無言。いや、別に話す事とかないし。
陸上部やらサッカー部やら野球部やらソフトボール部やらハンドボール部やらが練習しているグラウンドを横切り、校門に向かう。時折飛んでくる野球ボールを投げ返して礼を言われたり、サッカーボールを蹴り返して礼を言われたり。
設備は整っているが、部活ごとの仕切りというものが存在しないこのグラウンドではよくあることである。
ただただ広いグラウンド。通り抜け、校門に着くのには最低でも五分はかかる。
というわけで五分後。僕と功は校門前に立っていた。
騒がしい部活の喧騒。それを背に、学校の敷地を後にする。
いつもの帰り道。追い風は容赦なく背を打ち、僕たちの帰りを急かしている。そんなに急かさなくても、すぐに帰るっていうのに。
「あ〜、寒い」
何か不満そうにそう言う功。そんなに言うなら、コートでも着ればいいのに。でも。
「確かに、最近は寒いね。まだ秋の終盤だって言うのに、真冬並みの気候だし」
そんな他愛のない話を続けること数十分。僕たちは、家の前に立っていた。当然、僕の家の前に。
「じゃあ、また明日な」
「……明日は洋食だからね」
「え〜!?」
「……じゃあね」
不服そうにしながらも、手を振って帰っていく功。
僕は苦笑を浮かべながら、家の中に入って行った。
「ただいま」
兄さんは、いつも八時過ぎに帰ってくる。つまり、この段階で家には僕一人。別に挨拶をすることもないのだけれど、僕はいつもの習慣でそう言っていた。
靴を脱ぎ、リビングへ向かう。電気を点け、鞄を下ろして。その足で、冷蔵庫の前まで移動した。
扉を開ける。もわっとした冷気が外に溢れ出し、体感温度を三度ほど下げる。
冷蔵庫の中には、一昨日買っておいた鶏肉が。……明日、買い物に行こう。
「……何を作ろう」
冷気を浴びながら、思案を巡らせる。
照り焼きにでもしようかな。
「よし」
そうと決まれば、早々に解凍しなければならない。
時刻は、七時半。あと三十分で、兄さんが帰ってくる。残業さえなければの話だけれど。
本当は自然解凍が一番いいんだけれど、そう言ってられる時間もない。と、言うわけで電子レンジにシュート。
ブゥンという音が響き、中の皿が回る。
――プルルルルッ、プルルルルッ――
電話のベルが鳴り響く。こんな時間に、一体誰だろう。
首を傾げながら、受話器を手に取る。
「もしもし、佐々木ですが」
『もしもし・・・・・・。悠か?』
「兄さん?」
声は、兄である千夜のもの。一体、何の用件なんだろうか。いや、大体の予想はつくけど。
『すまない。今日の帰りは十時くらいになりそうだ・・・・・・』
「うん、分かった。出来るだけ早く帰ってきてね」
『ああ。・・・・・・善処する』
それだけ言って、切れる電話。僕は受話器を置いて、息を吐く。忙しそうだったな、兄さん。
解凍し終えた鶏肉を取り出し、一人分の大きさに切り分ける。
一人での晩餐。今まで何回もあったけど、慣れるものじゃない。僕は寂しさを紛らわす為、手早く調理を開始する。数十分後、今日の晩餐は完成した。
兄さんの分はラップで包んでおき、僕は自分の分を食べる。テレビからは味気ないバライティー番組が流れ、乾いた笑い声が画面から届く。
食事を終え、食器を片付け。僕はテレビを消し、自室へと戻った。
書きかけのレポートを、今日中に終わらせてしまおう。提出期限は明々後日だけど、早いに越した事は無い。
・・・・・・そうして、僕の一日はゆっくりと終りを告げた。
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