彼は、ただ駆け抜けていた。ただの一度も振り返ることは無く、ただの一度も立ち止まることも無く。その視線は遥か先、遥か上を見つめていた。
鋼という足場を蹴り、ただひたすらに駆ける。前へ、上へ。
降り注ぐ鋼の塊。この場所は既に崩壊を始め、死地と化している。
凶暴な塊が降り注ぐ。触れる足場はまるでアメ細工の様に崩れ、それは更なる崩壊を巻き起こす。しかし彼は、止まらなかった。
その瞳に映るのは、燃え滾る炎の意思。理性ではない、本能の灯火。
既に機能しなくなった左腕が、鋭い痛みを脳に届ける。滴り落ちるは紅い血。
既に、思考は無い。頭は止まることの無い痛みにより真っ白に、真っ赤に、真っ黒に変わってゆく。
なんて吐き気を催す極彩色。なんて頭痛を引き起こす万華鏡。
息が上がる。限界が近い。それでも、彼はその速度を遅める事は無かった。それどころか、速度は上がってゆく。
足場の確認はしない。靴底が伝える感触。それが事実。視認など、必要ない。
鋼を蹴り、跳び上がり、さらに駆ける。
途中、鋼が右足を強打した。死を招く崩壊の爆音に混じる、独特の音。折れた。半分にではなく、粉々に。
気が狂いそうな痛み。それを意地で押さえ込み、さらに駆けた。
彼は、満身創痍だった。無事な部分を探すことが困難なぐらいに、彼の身体は痛んでいた。しかし、止まらない。止まる理由が無い。
真っ白な頭で思うのは、あの約束。あのあどけなく儚い笑顔。
――■■■■――
最後に、彼女は何と言ったのだろうか。思い出せない。
漠然とした約束事。何を約束したのかも思い出せない。それでも彼は、挫けなかった。
もう少し。目の前には歪んだ扉。駆け抜けた勢いのまま、砕けている左肩で扉を破る。身が引き裂かれそうだ。痛い。真っ白な頭が、痛みだけを発する。
広がる室内。見えるのは、全ての始まり。
――目的を、果たそう……――
握る剣は、もう限界に近い。
ただ、一回の使用に耐えてくれるだけでいい。それで、全部が終わるのだから。
だから彼は、剣に全ての力を注ぎ込む。罅の入る刀身。今にも砕けそうなそれは、しかし強い輝きを放っていた。
まるで、彼の意思に呼応するかのように。
ここまで、一緒に駆け抜けてきた自らの分身。そういっても過言ではない剣に、全てを賭ける。
ただ最後に、あの笑顔が浮かんで。
――悲しまなければいい――
そう、真っ白な頭で思った。
足場を蹴る。身体は力を得て、上へ跳ぶ。全ての、始まりの元へと。
さあ、終わらせよう。この下らない争いを。
渾身の力を持って、刀身を突き刺す。迸る力の濁流は彼を、その全てを飲み込み。そうして、世界は極彩色に包まれた。
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